2006年06月30日
2006年06月30日
北農牛と呼べ!北農牛と!!
北部農林高校の生徒が育て県外に出荷された牛の肉は過去2回、最高ランクに格付けされたことがあるという。こないだの日曜日、その肉牛を県内在住の料理人が買い取り県内に流通させるという話をテレビで見ていて「えぇ、話や〜」と思ったのも束の間、この肉に料理人の名を冠すると聞いて一気に白けてしまった。
梅干しのブランドになっている「南高梅」は、その元になった梅の改良に尽力した和歌山県立南部(みなべ)高校の略称「南高」に由来していると聞いたことがある。生産者に敬意を表する者ならば、この肉に自らの名を冠さず「北農牛」と命名したのではないか。北部農林高校関係者がそれでいいというのなら仕方がないけれど、私はこの肉が「北農牛」もしくは、ひと目で北部農林高校が生産者だとわかるような名前に改称されるまで決して食べないことをご先祖に誓った。たとえ、目の前でジュージュー焼かれようとも!
梅干しのブランドになっている「南高梅」は、その元になった梅の改良に尽力した和歌山県立南部(みなべ)高校の略称「南高」に由来していると聞いたことがある。生産者に敬意を表する者ならば、この肉に自らの名を冠さず「北農牛」と命名したのではないか。北部農林高校関係者がそれでいいというのなら仕方がないけれど、私はこの肉が「北農牛」もしくは、ひと目で北部農林高校が生産者だとわかるような名前に改称されるまで決して食べないことをご先祖に誓った。たとえ、目の前でジュージュー焼かれようとも!
2006年06月30日
47年前の今日、
2006年06月29日
続よーんなー沖縄
この「よーんなー沖縄」は明日、切りのいい6月いっぱいをもって終了。7月から「続よーんなー沖縄」に引き継ぐべく新規ブログの作成をしたが、お気に入りやら何やら改めて入力しなくちゃいけないので、非常に面倒くさい(私が簡単な方法を知らないだけか?)。
しかし、100MBが1年足らずでほぼ満杯になるとは思わなかった。何よりも、こんなに続くとは我ながらビックリ!すぐに飽きるだろうと思っていたのに………。
まだ、まっさらな状態の「続」を早速覗いて下さった皆さん、有難うございます。さぞかしガッカリされたことでしょう…申訳ございません。とりあえず「続」を非公開にしました。これからも宜しくお願いします。
しかし、100MBが1年足らずでほぼ満杯になるとは思わなかった。何よりも、こんなに続くとは我ながらビックリ!すぐに飽きるだろうと思っていたのに………。
まだ、まっさらな状態の「続」を早速覗いて下さった皆さん、有難うございます。さぞかしガッカリされたことでしょう…申訳ございません。とりあえず「続」を非公開にしました。これからも宜しくお願いします。
2006年06月28日
2006年06月27日
2006年06月27日
双子のさくらんぼ
2006年06月27日
2006年06月26日
2006年06月25日
2006年06月25日
2006年06月24日
2006年06月24日
2006年06月23日
県産マンゴー出荷予想
2006年06月23日
慰霊の日
母は1945年3月、東京から既に北陸へ疎開していた祖父母や叔父叔母の元へと向かうため、最後の疎開船に曾祖母と2人で乗り込んだ。当時、母は沖縄県立第一高等女学校の3年生だった。「最後の疎開船」でネット検索すると「最後の疎開船が1945年3月22日に撃沈された」という記事が出てくるから、母と曾祖母が乗り込んだ船は撃沈された船と同じ船団だったのだろう。その船が撃沈された海域はよくわかならいが、沖縄と鹿児島の間と考えて、まず間違いない。だとすれば、母が沖縄を離れたのは3月下旬の可能性が高い。
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名、生徒222名)が「ひめゆり学徒隊」として召集され、南風原陸軍病院に看護要員として従軍したのは、1945年3月24日だ。もし、アメリカ軍の攻撃が激しくなったため、結果として「最後」の疎開船となった船に母が乗り込んでいなければ、ひめゆり学徒隊は「女子生徒及び職員総計241名(教師18名、生徒223名)」になっていただろう。
去年は退院して間もなかったので欠席したが、母はおととしまで、ひめゆりの塔慰霊祭に毎年出席していた。母は戦中戦後の生活について、具体的な話をほとんどしなかったが、何度か「私は沖縄から逃げた組だからね」と話すのを耳にしたことがある。沖縄戦で多くの親戚、友人、知人を失った母は自分が生き延びたことに引け目を感じているようだった。生死を分けたのは、たった数日の差でしかなかっただろうから、その念は尚更強まったに違いない。
自分が生きていることに対して罪悪感を覚えた時、母はどのようにしてそれを紛らわせていたのだろうか。ひめゆりの塔の前で毎年、かつての友に謝っていたのだろうか。母亡き今となっては知る由もない。
「いはまくら かたくもあらむ やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」(仲宗根政善)
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名、生徒222名)が「ひめゆり学徒隊」として召集され、南風原陸軍病院に看護要員として従軍したのは、1945年3月24日だ。もし、アメリカ軍の攻撃が激しくなったため、結果として「最後」の疎開船となった船に母が乗り込んでいなければ、ひめゆり学徒隊は「女子生徒及び職員総計241名(教師18名、生徒223名)」になっていただろう。
去年は退院して間もなかったので欠席したが、母はおととしまで、ひめゆりの塔慰霊祭に毎年出席していた。母は戦中戦後の生活について、具体的な話をほとんどしなかったが、何度か「私は沖縄から逃げた組だからね」と話すのを耳にしたことがある。沖縄戦で多くの親戚、友人、知人を失った母は自分が生き延びたことに引け目を感じているようだった。生死を分けたのは、たった数日の差でしかなかっただろうから、その念は尚更強まったに違いない。
自分が生きていることに対して罪悪感を覚えた時、母はどのようにしてそれを紛らわせていたのだろうか。ひめゆりの塔の前で毎年、かつての友に謝っていたのだろうか。母亡き今となっては知る由もない。
「いはまくら かたくもあらむ やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」(仲宗根政善)