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2006年04月29日

今日の昼食

 プラザハウス内「クリシュナ」のビジネスランチ(ドリンク付。1,155円+胡麻ナンup代105円)。
 カレーの名前はややこしかったので、忘れてしまったが、ローストされたチキンが入っていて、おいしうございました。  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 17:38Comments(2)ぶらぶら

2006年04月29日

このチラシ

 去年もいろんな所で見た。この裏にヤンバルクイナの事故多発区間が地図で示されているが、ヤンバルクイナ見たさに却って交通量が増えるのではないか。

  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 16:57Comments(0)独言

2006年04月29日

プラザハウスで

ヒュンダイ、アルファロメオ、フィアット車が展示中。

  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 14:40Comments(0)ぶらぶら

2006年04月28日

睡蓮の蕾

去年は5月中旬に咲いた。  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 16:44Comments(0)睡蓮

2006年04月28日

小学生は

半ズボンで寒くないのかな。

  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 16:09Comments(0)定点観測

2006年04月27日

沖縄と濱田庄司展

 父と浦添市美術館へ「沖縄と濱田庄司展」を観に行った。濱田庄司といえば、黒地に茶色の渦巻模様の皿しか知らなかったので、壺屋焼の影響が明らかな花瓶やマカイ、ダチビンなどが新鮮だった。

 特別展示として「壺屋の三人衆展〜金城次郎氏・小橋川永昌氏・新垣栄三郎氏〜」が同時開催されている他、18世紀から20世紀はじめの壺屋焼を中心とする沖縄のヤチムンも展示されていた。小橋川永昌の蓋付マカイは「これでつゆだく天丼を食べたら、うまいだろうなぁ」と見ているだけで食欲をそそられたし、金城次郎の作品は線彫りされた魚文や海老文以外の物が多く展示されていて見応えがあった。新垣栄三郎に関してはあまり馴染みがないので、機会があれば今後も多くの作品を見たい。

 父が「壺屋焼は戦前の方が素晴らしかったんだね」と言った。私も同感だった。これは壺屋焼が日常的に使われなくなってから、どれもこれも似たり寄ったりの物ばかり(邪推するに、少しでも高く売れそうな物ばかり)が作られるようになったせいではないだろうか。

 民藝運動は日常雑器に「用の美」を見いだしたが、結果的にこれを日本全国から(もしかしたら、朝鮮半島からも)駆逐してしまったのではないかと、またまた自らの浅学菲才を顧みずに偉そうなことを考えてしまった。  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 15:45Comments(0)ぶらぶら

2006年04月27日

第2の故郷

 日曜日に友人を火葬場で見送ってから、熊本に向かった。熊本市内に足を踏み入れるのは25年ぶり、正確には25年2ヶ月と20日ぶりだった。当然のことだが、街はすっかり様変わりしていた。写生大会そっちのけでザリガニ捕りに夢中になった湖、風疹のため隔離入院した病院、中学の入学式会場だった教会、朝早く寮を抜け出し空腹を満たしたミスタードーナツなどは25年前と変わっていなかったが、それらの前を車で通りかかった時、友人に「ほら、あそこ」と言われなければ見逃していただろう。6年間過ごした母校でさえ、そうだった。

 熊本は第2の故郷だと思っていたのに、初めて訪れた街のようで、懐かしさは全くこみ上げてこなかった。よく通った焼鳥屋は場所が変わっていた。ただ、店に入った時の匂いは昔と変わらず、熊本に来て初めて懐かしさを覚えた。味も変わっていなかった。焼鳥屋のご主人は頭が真っ白になっていたが、奥さんは全く変わっていなかった。友人の告別式に来られなかった熊本人2人も来た。

 翌朝ホテルを出て、市電で母校に向かった。「きっと、夕方熊本に入ってすぐ暗くなったから、よく見えなかったせいで懐かしく思わなかったはず」と思い込もうとしたけれど、朝の光を浴びた街は、やっぱりよそよそしく私を迎えた。熊本市交通局や熊本商業高校など、25年前と変わらない建物を見つける度に「おっ」と思わず小さな声が出た。向かいの人は怪訝な顔で私を見ていた。あえて見なかったけれど、多分隣の人も同じような顔をしていただろう。

 「ほら、あそこ」と教えてくれる人が誰もいなかったので、母校の前を市電が通り過ぎたのも気づかなかった。最寄りの電停で降りて、辺りをぐるっと見回した。寮の食事がまずい時や待てない時に行った食堂、お好み焼屋、パーラーなどは跡形もなく消えていた。歩道にツツジが咲いている。校内の桜や梅、金木犀は憶えているけれど、このツツジは記憶にない。正門の前に立った。新しい建物はできているけれど、校舎も寮も25年前のままだった。

 呼吸を整えるために母校の周囲を歩いた。よく買物をした農協のスーパー跡には農協の事務所が入っている。おでんを食べに行った雑貨屋はシャッターが閉まっている。まだ営業しているのだろうか。根元の近くからV字型に分かれた木は憶えている。近くの神社に向かった。参道沿いにツツジが咲いているが、これも記憶にない。立派な楼門ができている。ここも変わってしまったのかと危ぶんだが、境内の銀杏は記憶通りの場所に記憶のままの姿で立っていた。

 それからフェンス沿いに母校を一周した。グラウンドから嬌声が聞こえる。鉄棒の周りにジャージ姿の女子生徒がいる。ジッと見つめて変なオヂサンに間違われては大変だとすぐに目をそらしたが、衝撃だった。男子校だった母校が6年前に共学校になったことは知っていたが、女子生徒が校内にいるのを目の当たりにしても、にわかには信じられなかった。男子はサッカーをしている。高校最後の体育は冷たい雨の中でサッカーをした。全員が体中から湯気を立ち上らせてボールを追い、蹴った。その中に前日見送った友人もいた。彼はサッカー部のキャプテンだった。

 また正門に戻ってきた。深呼吸してから校内に足を踏み入れた。事務室で中2の時に舎監だった教頭先生にお目通りを願った。事務室と校長室の間にある生徒が立入禁止のロビーに通された。在学中にここへ入ったのは、校長先生に呼び出されて説教された高3の時だけだった。教頭先生としばらく話してから、在学中に3〜4回しか入ったことのない職員室へ行った。中3の時の担任の先生の後姿が見えたので追いかけたが、その途中で一番会いたくなかった高3の時の担任の先生に捕まった。結局25年ぶりの母校訪問はこの先生との話でほとんど費やされた。中3の時の担任の先生は、私が挨拶すると「よっ、久しぶり」と軽く手を挙げただけで、相変わらず素っ気なかった。

 チャイムが鳴った。教室前を女子生徒が歩いている。校舎も寮も変わっていないけれど、ここは本当に私の母校なのだろうか。職員室に続々と生徒が入ってきて、先生方と親しげに話している。呼び出しを食らったわけではなさそうだ。生徒が自ら進んで職員室へ来ることなんて、私が在学中には有得なかった。「休み時間には、いつもこんなに生徒が職員室に来るんですか」と教頭先生に訊いたら「う〜ん、共学になってからじゃないかな」とおっしゃった。職員室を見渡すと、なるほどそこにいる生徒の2/3が女子だった。休み時間で職員室に戻ってこられた、中1、中2と歴史を習った先生にも挨拶した。もう時間がなくなった。

 母校の前でタクシーを拾い、熊本空港へ向かった。その車中、今まさにタクシーで走っている道を前日見送った友人と猛スピードで自転車をこいでいる光景が脳裡に鮮やかに甦ってきた。前夜の焼鳥屋に行くためだった。高3の冬、受験直前の我々は何をそんなに急いでいたのだろう。私は道路を横断する時、道と市電線路の間にある溝に前輪がすっぽり挟まったため転倒した。慌てて立ち上がり、自転車を起こした。向こう側の歩道では彼が私を指さして笑っていた。「何がおかしかいや!」と怒ったら「おまえ、転がりながらずっと『アー、アー』ておらんどったろ(と叫んでいただろう)」と息も絶えだえに言う。「バスがすぐそこまで来とったろーが!」と半泣きで訴えると、彼は片手で自転車のハンドルを握ったまましゃがみ込み、呼吸困難になるほど笑い続けた。しばらくして顔を上げた彼は「バスは100mくらい先やったぞ」と涙目で言った。冷たいアスファルトの上を転がっていた私には、バスがすぐそこにまで迫っているように見えたのだが…。

 熊本は第2の故郷ではなかった。母校で共に過ごした友人達との思い出そのものが私にとっての第2の故郷なのだと確信した。  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 13:55Comments(0)独言

2006年04月27日

久しぶりの青い海




  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 11:41Comments(0)定点観測

2006年04月26日

降ったりやんだり




  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 15:44Comments(0)定点観測

2006年04月25日

いつまでもあると思うな

 先週金曜日に友人が亡くなった。翌朝にその知らせが届いたが、信じたくなかった。母が死んだ時は、弔問客の接待、葬儀社や広告代理店との打ち合わせ、弔電の受取など、押し寄せてくる用事と先行きの不安で悲しむ暇があまりなかったが、彼の死は繰り返しくりかえし何度も何度も私の胸を静かに、そして深くえぐった。彼も私も中学高校の6年間を学校の敷地内にある寮で生活した。同じ屋根の下で眠り、同じ釜の飯を食い、同じ湯に浸かった、血を分けた兄弟よりも濃密な時を共に過ごした兄弟以上の存在だった。

 知らせを受けてから8時間トゥルバッて、弔電を打った。ケータイで何度も福岡便の空席照会をした。眠れなかった。夜中の3時に航空券を予約した。07:40発福岡行きの飛行機に乗って、地下鉄、新幹線、モノレールを乗り継ぎ、ezナビウォークを頼りに彼の家へ向かった。告別式は12:00からだったが、会えるものならその前に会いたかった。10:00過ぎには呆気なく彼の家へ着いた。開けっ放しの玄関に入ると、喪服姿のお母様と奥さんらしき人がいらした。名乗って、用件を告げるのが精一杯で、後は言葉にならなかった。残念なことに、彼はいなかった。お通夜のため、前日既に斎場へ運ばれていたからだ。
 
 それから彼が生まれ育った街を当てもなく歩いた。初めて訪れた大都会のあちらこちらでツツジが咲き始めている。花を残したソメイヨシノが1本だけ立っている。10:40頃ケータイが鳴った。熊本から駆けつけた同期生6人は、既に斎場近くのファミリーレストランにいるという。日頃は自分でも腹立たしくなるほど方向音痴の私が迷わず最寄りのモノレール駅へ着き、30分後には熊本組と合流した。

 告別式が始まる20分前に斎場に入った。祭壇の前に棺に入った友人がいた。高校を卒業した年の4月に彼が東京へ遊びに来た時に会って以来だから、顔を見るのは25年ぶりだった。その顔は当時の1.5倍くらいに膨れ上がっていた。「こげん肥えて、はよ死んで、馬鹿じゃなかや」と悪態をついたが、返事はなかった。奥さんに挨拶した。そばに友人そっくりの女子中学生が立っていた。お母様の目は赤く腫れ上がっていたけれど、お父様は口を真一文字に結んでいらした。

 告別式の最後に参列者全員が供花から花を摘み、棺に入れた。棺の蓋が閉じられる直前、友人の額に触れ「バイバイ」と言ったら、そばにいらした奥さんが驚いたような顔で私を見られた。本土では亡骸に触れる習慣がないのだろうか。棺のそばを離れたら、見知らぬ人に「同期生ですか」と訊かれた。「そうです」「棺は同期生の皆さんで運んで下さい」と頼まれた。参列した同期生に声をかけ、9名で友人の棺を車まで運んだ。重かった。「こやつ重かね」と私が軽口をたたいたら、彼と同郷の友人が「まったく、最後の最後まで迷惑かけやがって」と怒ったように言った。その声は震えていた。

 火葬場にも行った。友人が荼毘に付されている間、中学生の長女は奥さんと一緒に参列者の間を回り挨拶していた。告別式の時、何度も涙を拭っていた小学生の長男はいとこと思しき同年輩の子供達と遊んでいた。館内放送があり、控え室から収骨室へ移動した。収骨室の前で長男の肩をたたき「おじさんはお父さんの友達だ」と声をかけたら「う〜ん」と首をひねった後、わかるはずもないのに「はい、はい、はい、はい」と首を縦に振った。「おじさんがどこから来たか、わかるか」と訊いても「はい、はい、はい、はい」と首を縦に振る。顔は似ていないけど、テキトーなところはそっくりだなと吹き出すのをこらえていたら、友人が骨になって登場した。まさか、彼の骨を拾うことになろうとは思いも寄らなかった。骨壺は小さく、全体の1/4くらいしか収まらなかった。残った骨は再び炉の中に入れられた。本土ではこれが普通らしい。粉になるまで焼くのだろうか。

 火葬場の駐車場で小さくなって奥さんの膝に抱かれた友人を見送った。同期生一同しばらく言葉もなく佇んでいたら、お父様がわざわざ我々の元へ来られてお声をかけて下さった。「遠くからわざわざ有難うございます。同期生やサッカー部の皆さんや学校からお花を沢山いただいて、息子も喜んでいると思います」とおっしゃって顔を歪められた。「息子をあの学校にやって本当によかったと思います」。

 「いつまでもあると思うな、親と金」はよく知られている言葉だが、私はこれを勝手に「いつまでもあると思うな、親と金とドゥシ」と改めて、深く心に刻んだ。  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 18:09Comments(3)独言

2006年04月25日

風がないから

半袖でも大丈夫!(ちょっと強がってみた)

  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 16:36Comments(0)定点観測

2006年04月24日

霞んでいる

黄砂か?

  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 18:19Comments(0)定点観測

2006年04月21日

「きょうの猫村さん 2」!

 待ちに待った「きょうの猫村さん 2」が5月31日にいよいよ出る。
 猫なんて、ただそこにいるだけで充分なのに、猫村さんみたいな健気で働き者の猫がうちにいたら、どんなに嬉しいことだろう。

  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 20:53Comments(2)独言

2006年04月21日

慶良間かつお節本舗

 昨日、本部町の渡久地港に初鰹の水揚げがあったと、今日の琉球新報朝刊が伝えていた。去年、同様の記事で初めて知って意外だったのは、沖縄本島で鰹漁をしているのは具志堅用堅船長率いる第11徳用丸(乗組員14人)だけだそうだ。鰹漁は実入りが悪いのだろうか。

 話は変わるが、鰹で思い出したことがある。私はかつて品質のいい鰹節として県外にもその名を轟かせていた「慶良間節」の復活を座間味村で目指している宮平勇樹さんとお会いしたことがある。最初にお会いしたのは2年ちょっと前で、その時はダイビングショップのオーナーでいらした。その数ヶ月後の夏、2度目にお会いした時「今の時季は、ダイビングのお客さんが多いでしょう」と話しかけたら「今は鰹節屋をやってるんです」と「慶良間かつお節本舗」の名刺を差し出された。

 姉と私は鰹節が好きで、母が鰹節を削り出すと、その元に駆け寄り争うように削り立ての鰹節を口に入れた。時には母からもらったちびた鰹節を飽きることなく、交代でしゃぶり続けたこともある。もしかしたら、あれは「慶良間節」だったのかも知れない。そんなことを思いながら「是非、宮平さんの作った『慶良間節』が食べたいです」と言ったら、まだなまり節しか作っていないと言われた。詳細は忘れてしまったが、鰹節は作るのが難しいとのことだった。

 その後、配属が変わって宮平さんとお会いするチャンスに恵まれなかったが、同じ年の「離島フェア」に「慶良間かつお節本舗」が出店した。宮平さんがいらしたので、「『慶良間節』下さい」と声をかけたのだが、まだできていなかった。それで「味付なまり節」と、もう1品鰹の加工品を買った。20年ほど前、魚屋でバイトしている時に初めて食べたなまり節はチーチーカーカーして、あまりおいしくもなく、それ以後口にしていなかった。しかし、「慶良間かつお節本舗」の「味付なまり節」はほとんどチーチーカーカーすることがなく、夫婦共々おいしくいただいた。

 でも、やっぱり私はなまり節よりも鰹節の方が好きだ。今でも小腹が空いた時に「花がつお」を食べることがある。妻はそんな私を「変な人」呼ばわりするけれど、愛猫チャンイは理解してくれるので、お裾分けをやりながら一緒にムシャムシャ食べている。インターネットで検索してみたが、残念なことに「慶良間かつお節本舗」はまだ鰹節を販売していないようだ。宮平さんが作られた鰹節ならきっとおいしいことだろう。1日も早くチャンイと一緒に味わいたい。
  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 17:32Comments(0)独言

2006年04月21日

午前中

外にいたら日焼けした。
吹く風爽やか。

  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 16:11Comments(0)定点観測

2006年04月20日

レンタカーが気になる

 今日の昼過ぎ、国道58号線を車で北上中に挙動不審な「わ」ナンバーの日産マーチが前を走っていた。やたらとブレーキランプを点滅させつつ、時速30kmくらいでノロノロ走っていたかと思えば、いきなりウィンカーを出さずに車線変更をした後、猛スピードで車間距離を詰めて急ブレーキをかけたりする。乗っているのは1人だけだったから、きっとカーナビを見ながら運転していたのだろう。

 クワバラ、クワバラ。この車の近くを走っていたら事故に巻き込まれる可能性大だと、なるべく近寄らないようにしていたのだが、城間の交差点で信号待ちをするため減速したら、またウィンカーを出さずに私の前に割り込んできた。先月タクシーに オカマを掘られたばかりだが、今度は危うく掘りそうになってしまった。

 信号待ちの間、前に止まった銀色の日産マーチを睨んでいたら、リアガラスにマツダレンタカーのシールが貼られていることに気づいた。マツダレンタカーでは、マツダ車だけでなく日産車も貸しているのか。ならば、日産レンタカーでもマツダ車を扱っているのだろうか。でも、それではレンタカー会社が自動車メーカーの名前を冠する意味がないのではないか。

 これ以後、「わ」ナンバーを見つける度に、リアガラスに貼られたレンタカー会社のシールを確認したが、トヨタレンタリースはトヨタ車ばかりだった。この他にニッポンレンタカー、ジャパレン、OTSレンタカーは見つけたけれど、日産レンタカーとマツダレンタカーは走っていなかった。

 
   

Posted by 百紫苑(hakushon) at 17:24Comments(0)独言

2006年04月20日

愛猫チャンイ;無理やり

 我が家では床の上にいつも段ボール箱が2つ3つ転がっている。形もサイズも違うそれらの箱は、チャンイのために転がしているのであって、決して散らかしているわけではない。

 チャンイは段ボール箱で爪を研いだり、噛んだりして喜んでいる。40cm四方くらいの平べったい箱の蓋を開けておくと、遠くからダッシュしてきてこれに飛び乗り、箱と一緒にスライディングして遊んだりもする。

 チャンイは昨日から全身がギリギリ収まるくらいの箱に入り浸っていて、その縁に顎を乗せて座ったまま我々夫婦を観察したり、その中でグルーミングしたりして過ごすことが多くなった。そして、いくら何でもこの中で眠るのは無理だろうという私の思い込みをあざ笑うかのように、難なく全身を収めてしまったことに驚いた。

 チャンイ、背中のところがたわんでいるぜ。ちょっと無理やりじゃないか。1度でいいから、寝違いした猫とか閉所恐怖症の猫とかを見てみたい。  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 16:13Comments(0)二代目チャンイ

2006年04月20日

日が射してきて

気温は高くなってきたけど、風が強いので体感温度は低い。

  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 14:40Comments(0)定点観測

2006年04月19日

恐怖新聞か?

 昨晩、帰宅して夕刊を広げたら、おとといの物だった。妻に「今日の夕刊は?」と訊くと、不思議そうな顔で「それだよ」と答えた。日付を確認したら、確かに「2006年(平成18年)4月18日 火曜日」とある。変だなーと思いつつページをめくったが、どの記事も既に読んでいる。テレビ欄の広告もはっきり憶えていた。
 「俺、この新聞読んだことあるな」と呟いたら、妻は「どっかで読んだの忘れたんじゃないの。ほら、実家とか」と言った。それはないけれど、我がことながら気持ち悪くなってしまって「きっと、そうだな。あぁ、遂に俺も呆けたか」と少し大袈裟におどけてみた。これに対し妻は「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 18:19Comments(2)独言

2006年04月19日

大雨




  

Posted by 百紫苑(hakushon) at 14:53Comments(2)定点観測