2005年08月01日

読谷山花織

少し前の話になるが、6月19日に読谷村立歴史民俗資料館と同美術館(同じ建物の1階と2階)へ「読谷山花織展」を見に行った。

中に入るとまず読谷山花織の源流である東南アジア各地の織物が展示されていた。これらは古い物から、いかにも「現地のお土産屋さんで買ってきました!」といった感じの安っぽい物まで玉石混淆だったが、その技法が遠い国から読谷にもたらされたものだと理解するには充分だ。

更に進むと与那嶺貞によって復元される前の読谷山花織が展示されていた。袖や裾が擦り切れてしまっている物、或いは繕われた跡が残っている物など様々だった。読谷山花織は1879年の廃藩置県後から90年弱その技法が途絶えてしまっていたので、晴着や村祭りの衣装としていかに大切に扱われていたのかが窺える。

2階へ上がるとまず与那嶺貞の作品が展示されていた。説明書きを読むが専門用語が多用されていてよくわからない。いずれにしても地道で気の遠くなるような努力なくして読谷山花織の復元は有り得なかったのだと痛感する。

続いて与那嶺貞の後継者達の作品がずらりと並んでいる。会場内を隈なく見学している内に、説明しがたい違和感が湧いてくる。それが斬新的な文様のせいなのか、それとも反物ばかりが並んでいるせいなのか、その時はわからなかったが、先日「金城次郎追悼展」を壺屋焼物博物館で見た時にハタと気づいた。

金城次郎の作品名はどれも「線彫魚海老文大皿」や「指描魚文壺」といった物ばかりだ。つまり「これは線彫という技法で魚と海老の模様を描いた大皿です」とか「これは指描という技法で魚の模様を描いた壺です」と作品の説明をしているだけなのだ。読谷山花織展の時にメモを取らなかったので、はっきりしたことは言えないが与那嶺貞の作品名も同様だったと記憶している。

これに対して私が違和感を抱いた作品には「夜空の向こうへ」、「星のきらめき」などといった名前がついていた。本来なら織物は鋏を入れられ、針と糸で縫われて着物になるべきだが、これらの名前がついた反物は人に着られることを拒否しているのではないか?これは読谷山花織を復元した与那嶺貞が望んだことだろうか?

名瀬市では「成人式に大島紬を着よう!」というキャンペーンをしている。読谷村でもこれを真似て「成人式には読谷山花織を着よう!」と呼びかけたらどうだろう?或いは村長、村議、村役場の職員全員に読谷山花織かりゆしウェアの着用を義務づけるのはどうだろう?週に1回でも月に1回でもいい。読谷山花織を着る人がいなくなれば、それは再び絶えるだろうと部外者の私が憂うのは大きなお世話だが…。

この日は、沖縄県立博物館で「美ら染め・天然の色展(伝統工芸作品)」も見た。貝紫で染められた物を間近で見るのは初めてだったが、濃いも淡いもとにかく美しい。この紫を手に入れたいと帰りに博物館の売店へ寄ってみたら、貝紫で淡く染められたハンカチがびっくりプライス¥4,200!手が出なかった…。
読谷山花織

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Posted by 百紫苑(hakushon) at 02:30│Comments(0)ぶらぶら
 
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