2005年08月19日
8月18日の親戚回り
昨日は十数年振りに父と弟と一緒に親戚回りをした。以前は10カ所近く回っていたが、父の脚が衰えると共にここ数年は3カ所しか回っていないという。今年はそれらに加えて、先日亡くなった父のクビチリドゥシMさん宅へも伺った。
最初に向かったMさん宅は首里汀良町にある。父と弟を降ろし、駐車場を探すため車を移動させた直後に土砂降りとなった。数分後、弟から連絡があり、Mさん宅の裏に駐車場があるという。車1台がやっと通る道をすり抜け、車を停めたが、この日2度目の「傘を差しても、ずぶ濡れじゃー」の憂き目に遭う。
私がMさん宅にお邪魔するのは多分25年振りくらいで、以前はバス通りから少し入った所にあったが、その道路が拡張になったため、今は入ってすぐの所にある。家も改築されていて、子供の頃に時々遊びに行った時の記憶と全く重ならない。父は淡々と奥さんと娘さんにMさんの思い出話をしていた。
この後、御茶屋御殿跡その他を回り、首里金城町にある祖母の実家へ向かった。父は運転免許を持っていないので、車に同乗するとあちこち行きたがり、突然「そこを曲がってくれ」と言っては運転手を困らせるのだが、何度注意しても直らない。車内に「車は急に曲がれない」という標語を掲示したいくらいだ。
それはともかく、父は不思議な人で生まれ育った首里や那覇に限らず戦前の中部の道にも詳しい。父から中学生の頃、自転車で那覇から嘉手納まで行ったことがあるという話を聞いたことがあるので、力尽きるまで沖縄本島を自転車で駆け巡った、元サイクリング野郎なのかも知れない。
祖母の実家で父は1945年4月2日に米軍が撮影した首里周辺の航空写真を広げ、父より4つ年長の主に坂の名前を確認している。主は「4月2日にはまだここの屋敷が残っていたんだねー」と食い入るように航空写真を見つめ、続いて「あっ、これは○○さんの屋敷だねー」などと父が写真に記したメモを見る度に感慨深げで、なかなか坂の名前が聞けない。結局「よくわからない」となり、親子3人モヤモヤとしたままそこを去った。
続いて首里大中町に向かう。ここには数え92歳になる母の叔母が健在だ。大叔母は今月初めに肺炎を患い入院したが、「年寄りの肺炎は………」という家族や親戚一同の胸中に去来した不吉な予感をも驚異の生命力ではねのけ、見事全快した。昨日お会いした時も以前と変わらない元気溌剌ぶりを発揮し、6年前に風呂場で転んで以来腰が痛いと言いながらも、奥の部屋からお菓子を持ってきたり、お茶を入れたり、ひょいひょいと身のこなしが軽く、11歳年下の父よりお若く見える。聞けば入院したのは今回が初めてで、入院病棟がいろいろ物珍しかったようだ。
ここで「カメー、カメー攻撃」ならぬ「お上がんなさい、お上がんなさい攻撃」を受け、ウンケージューシー2杯、中味汁2杯、お茶大量、ヤクルト1本、お菓子少々を頂いた。その由来は未詳だが、大叔母の家は旧暦7日14日にウンケーをする。つまり我々はこの家のご先祖より先にジューシーを頂いたことになるのだが、大叔母はそれを気にする様子もなく「お上がんなさい、お上がんなさい攻撃」の手を緩めないので、ほうほうの体で脱出する。
大叔母は次男夫婦宅の2階に住んでいて、2階の玄関からは東シナ海が見えるが、写真にはなかなかきれいに写らない。
最後に泊にある本家に行った。もう19:00を過ぎていたので、早めに失礼しようと親子3人で相談していたが、そう簡単に帰れるはずがなく、掛軸の判読不能な文字と格闘したりしている内に時間はあっという間に過ぎて、結局ここを出たのは20:00過ぎになっていた。
父の脚が衰える前に行っていた首里平良町、開南、南風原にある親戚宅は、私たち兄弟だけでは探せない。親戚づきあいというのは、このようにして疎遠になって行くのだろう。
最初に向かったMさん宅は首里汀良町にある。父と弟を降ろし、駐車場を探すため車を移動させた直後に土砂降りとなった。数分後、弟から連絡があり、Mさん宅の裏に駐車場があるという。車1台がやっと通る道をすり抜け、車を停めたが、この日2度目の「傘を差しても、ずぶ濡れじゃー」の憂き目に遭う。
私がMさん宅にお邪魔するのは多分25年振りくらいで、以前はバス通りから少し入った所にあったが、その道路が拡張になったため、今は入ってすぐの所にある。家も改築されていて、子供の頃に時々遊びに行った時の記憶と全く重ならない。父は淡々と奥さんと娘さんにMさんの思い出話をしていた。
この後、御茶屋御殿跡その他を回り、首里金城町にある祖母の実家へ向かった。父は運転免許を持っていないので、車に同乗するとあちこち行きたがり、突然「そこを曲がってくれ」と言っては運転手を困らせるのだが、何度注意しても直らない。車内に「車は急に曲がれない」という標語を掲示したいくらいだ。
それはともかく、父は不思議な人で生まれ育った首里や那覇に限らず戦前の中部の道にも詳しい。父から中学生の頃、自転車で那覇から嘉手納まで行ったことがあるという話を聞いたことがあるので、力尽きるまで沖縄本島を自転車で駆け巡った、元サイクリング野郎なのかも知れない。
祖母の実家で父は1945年4月2日に米軍が撮影した首里周辺の航空写真を広げ、父より4つ年長の主に坂の名前を確認している。主は「4月2日にはまだここの屋敷が残っていたんだねー」と食い入るように航空写真を見つめ、続いて「あっ、これは○○さんの屋敷だねー」などと父が写真に記したメモを見る度に感慨深げで、なかなか坂の名前が聞けない。結局「よくわからない」となり、親子3人モヤモヤとしたままそこを去った。
続いて首里大中町に向かう。ここには数え92歳になる母の叔母が健在だ。大叔母は今月初めに肺炎を患い入院したが、「年寄りの肺炎は………」という家族や親戚一同の胸中に去来した不吉な予感をも驚異の生命力ではねのけ、見事全快した。昨日お会いした時も以前と変わらない元気溌剌ぶりを発揮し、6年前に風呂場で転んで以来腰が痛いと言いながらも、奥の部屋からお菓子を持ってきたり、お茶を入れたり、ひょいひょいと身のこなしが軽く、11歳年下の父よりお若く見える。聞けば入院したのは今回が初めてで、入院病棟がいろいろ物珍しかったようだ。
ここで「カメー、カメー攻撃」ならぬ「お上がんなさい、お上がんなさい攻撃」を受け、ウンケージューシー2杯、中味汁2杯、お茶大量、ヤクルト1本、お菓子少々を頂いた。その由来は未詳だが、大叔母の家は旧暦7日14日にウンケーをする。つまり我々はこの家のご先祖より先にジューシーを頂いたことになるのだが、大叔母はそれを気にする様子もなく「お上がんなさい、お上がんなさい攻撃」の手を緩めないので、ほうほうの体で脱出する。
大叔母は次男夫婦宅の2階に住んでいて、2階の玄関からは東シナ海が見えるが、写真にはなかなかきれいに写らない。
最後に泊にある本家に行った。もう19:00を過ぎていたので、早めに失礼しようと親子3人で相談していたが、そう簡単に帰れるはずがなく、掛軸の判読不能な文字と格闘したりしている内に時間はあっという間に過ぎて、結局ここを出たのは20:00過ぎになっていた。
父の脚が衰える前に行っていた首里平良町、開南、南風原にある親戚宅は、私たち兄弟だけでは探せない。親戚づきあいというのは、このようにして疎遠になって行くのだろう。
Posted by 百紫苑(hakushon) at 14:05│Comments(0)
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