クビチリドゥシ(刎頚の友)
昨日実家に行ったら、母が「今日Mさんが亡くなったのよ」と言う。父とMさんは師範学校付属小から一中にかけての同級生だ。父は3週間前にMさんの具合が悪いと聞き、杖をついてお宅までお見舞いに伺ったそうだ。その時父は「家の中でじっとしているだけではかえって体に悪いから、少しは家の周りを散歩した方がいい」とMさんを励ましたらしいが、それから数日後にMさんは入院し、そのまま帰らぬ人となった。
父とMさんの関係について、父より2つ下の叔父から盆や正月毎に聞かされる話がある。
「あれはね、君たちのお父さんが中学5年の時だよ。全校集会である先生が『最近、遅刻する生徒が増えている』というような話をしている最中に『遅刻する先生だっているじゃないか』と歯向かう生徒がいてね。僕はすぐに兄貴の声だとわかったから、もうビックリしてね。あの頃、先生に反抗するなんて考えられなかったんだよ」
「それで先生は黙ってしまって、全校生徒がザワつき始めたら、配属将校が腰にぶら下げたサーベルを抜いて『貴様ぁ〜、放校だぁ〜』と兄貴に向かって叫んだんだ。抜刀したということは正式な命令だからね。君たちも映画なんかで見たことあるだろ。ほら、兵隊に向かって『突撃ぃ〜』と命令する時、将校はサーベルを抜いているだろ。あれだよ、あれ。それにね、放校になったら、転校できないんだ。退学処分なら転校できるけど、放校というのは退学より重い処分なんだ」
「『僕も兄貴と一緒に放校になるんだ』と震えてたら『遅刻する先生がいらっしゃるのは事実じゃないですか』という声がしたんだ。これもすぐにMさんだとわかったよ。あの頃は軍人が威張っている時代だからね、配属将校に口答えするなんて、先生以上に有り得ないことだったね」
叔父の話はいつもここまでで終わる。「あの時M君が助け船を出してくれなかったら、僕は放校になっていたかも知れないね」と父が口を挟むからだ。従って父とMさんがどのような処分を受けたのかは知らないが、2人とも無事に一中を卒業したから、放校はおろか退学にもなっていないのは確かだ。
自分達のだらしなさを棚に上げて偉そうに説教する教師に歯向かうのは、時代を問わず愚か者だ。「あ〜、はい、はい」と面従腹背で流せばいいことではないか。しかもこれは昭和17年、司馬遼太郎の言葉を借りると「日本が大日本帝国陸軍に占領されていた時代」の話だ。このような時代にその愚か者をかばうため軍人に口答えするのは、更に輪をかけた愚か者だ。だが、この愚か者同士は小学校以来の友だったのだ。我が身を挺して友の窮地を救わなければ、真の友とは呼べない。
昨日はMさんの通夜だった。実家からMさん宅まで父を送った。父は70年余りの友の死を受け入れているようで淡々としていた。私はMさんの亡骸を目の当たりにした父が平静でいられるだろうかと心配だったが、迎えは要らないというので、Mさん宅の近くで父と別れた。
私はMさんのような友を得た父を誇りに思う。
合掌
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